最近こどもと話している時に、お互いの要求を満たし合うことについてよく考えています。
例えば、私はどうにかして愛情を伝えたいのだけれど
ネグレクトで学習が多くなされていないのでよく分からなかったりすることも多くあります。
ひとまず自分がされて嬉しいことをしてみて、子の反応を見て、修正する。
そして周囲を観察して、どのように愛情を注いで、どこを線引きしていて、どこまでの線引きが案外大丈夫なんだな、とか
これはこういう影響になるんだな。など観察しています。
見ていて思うのは、子たちの適応力の高さです。
環境をも飲み込んでぐんぐん育っていくので、そんなに心配しなくて良いんだなとびっくりしました。
子供に愛情を注ぐ、すなわちケアしながら育てるというときに
こちらが与えたい物を与える、とか というのはやはり窒息していき栄養にはならないんだなと、今のところはですが考えています。
自分の幼少期を重ねてその自分を満たしたいだけで、そこに現実の子は居ない。
実際洋服とかを一緒に買いに行っても そもそも洋服がそんなにいらないとか、そこまでこだわりのないこと、好きな子もいます。一度可愛い、好きなキャラクターの服を買って帰ったことがあります。全く喜びませんでした。シナ〇〇は一枚持ってるから、もう良かったそうです。それで、あぁこの行動は着せ替え人形への一歩だったなと反省し、やめました。
では何が嬉しいのか?と尋ねると、絵を描く時間がいい感じだから 大きな紙が欲しいと言ったりするわけです。
生活に必要な物を揃えようと思ってもそれぞれで、コップ一つでもストローだったり、絵柄付きだったり。
あと、あのアニメのあれ、と本当に欲しいものは言ってくるなぁとか。
反対に、わたしを起こすときに顔を何度も叩く子がいました。叩かれると痛いが、まだ分からない。
顔を叩くときは緊急事態で、足か背中か、ラッパを吹くか、ピアノを弾くか、起きて、で起きるよと学習してもらいました。
聞くと、起きる時は目が開くから、顔を叩けばいいと思ったそうです。
また、抱っこしたくても、抱っこされたくないときもあります。
泣いてても抱っこされたい時と(安心したい) 泣き止むまで隅っこで泣きたい(整理したい)時があるそうです。
そうやって、お互いに、予期せぬ、予想と違う相手を知っていくこと。知りたいと聞くこと。それを満たすこと、守ること、尊重することがコミュニケーションであるなぁと、改めて新鮮に身に沁みています。
お互いが、一体化して融合しているわけじゃなくて、別の人間で塊なんだ!と幾つになっても毎回新鮮に思います。お風呂とかで服を着ていないと、ほぼ一緒なわけです。見た目。でも話すと異なる感性で、異なる感情を持っている。
母子や養育する側と受け取る側、幼児の発達の過程では特に、違う人間なのか!と毎回驚いている小さき人たちを見ていると本当に新鮮です。そして私も、毎回驚いています。
だからたくさんなんで?と聞かれます。なんであなたは〇〇のスリッパを履いているけど、今日は同じキャラクターのスリッパをこっちの人が履いているの? (そのキャラクターを好きな人がたくさんいて、好きは共有さえるものだと知らなかった。〇〇のキャラクターは自分のもの、という感覚があるからですね)
なんで?と人に思うときは、異なる時。それを知りたいと思うことが人への柔らかな関心でありコミュニケーションだろうなと思います。時に理解できないなんで?もあるけれど、それは感受性が異なるだけの話なわけです。同じようになんとなく感じているはず、というところが共有できないとシチュエーションによっては場の不安定さや危機を感じることもある。それでもなんとなく人はその奥のなんとなく根本の部分で一緒なんだなと感じられるのが基本的な信頼感なのかも知れないと思いました。
ここでハードな状況で育ってきていると、物理的に生命が安心できない感覚が生まれるのかも知れません。
どうして?なんで?と繰り返し聞くことは、自分の安心を構築するのにも、役立つ側面があるのかも知れないなと思っています。
言葉なしで、ふれあいでグルーミングしていた、し合っていたものを
今度は言葉でグルーミングしお互いの背中を撫でられるように、発達していく。
そしてまた、青年期になるとふれあいで親密さをグルーミングしあうように発達(原点がえり?)していく。
また、個人的にグッと濃い感覚が立ち上るときは大抵幼少期の自分を小さき人の中に見ているときで、
何かやってあげたい!というのが立ち上がってきたら、注意で後で内省として蓋を開けたり観察したりはしますが、行動としてはスルーするようにしています。愛しさも愛情も感動もありつつ、表面の行動自体はもっとさっぱり、淡々とニーズを満たし合う毎が程よいのかな、と。
それにしても小さき人たちを見ながら、この年齢でわたしはこの育てられ方だったのか!ととてつもなくびっくりする連続の日々です。
どうしてそんなことができようか、その感覚が全く分からないと思う一方で、
感覚や衝動として、本当によくわかるものがある。と思う時もあります。
立ち上ってくるものがある時、自分を責めず、過去の自分と今それを感じている自分、傷ついてきた自分、
ここまで抱えて生きている。生きて生きた自分というのを、ただ見つめて、たくさんケアしてあげて欲しいなと思います。
本当によくやっている。たくさんの方々を見ていて、よくやってきたと思わないひとはいません。
様々なハンディや逆境の中で、よく自分を生き抜き、育て上げ、守ってきたなと。
強いられた過酷さであり、そしてその生き抜き方にそれぞれのリソースが宿っています。






